無色の時間
端っこの方とはいえ音楽にかかわる仕事をしていると、ときどき『まっさらな時間』がむしょうに欲しくなる。仕事でも音楽を聴き、行きかえりの満員電車をまぎらわすために音楽を聴き、街を歩いているときには街頭のざわめきやストリートミュージシャンの歌声。店に入れば店内BGM。
家に帰り着いた時には、空白の時間が欲しくてしょうがない。でもTVもあるし、ラジオもあるし、インターネットでは動画も(そして動画についてくる広告の数々も)有音なわけだ。
街を歩いているとき、イアホンをしていてもなにも流さない、流したくない時があるのだけど、最近その頻度が増えたような気がする。遮音、耳栓替わりに使っているのかもしれない。でも音楽が流れていなければ、話しかけられても反応できるし電車のアナウンスだって案外聞こえる。無音イアホン、意外と便利だ。
居合わせた人のつくる雑音や外の喧騒を聴く「4分33秒」が作曲されてから、もう60年以上の時が経った。初演当時は人々を不安でざわめかせた「無音」に、いま私は別の意味あいで強く惹かれてしまう。どこにいっても何かを聴かなくてはならない状況からのがれたい衝動がある。現代に生きる日本人は、楽音のない部屋で澄んだ空白の時間を享受したいと欲するようになったのですよ、とケージに言ったら、なんと答えてくれるのだろう。
そんなようなことを考えてしまったのは、電車の中でよんだこの記事のせい。
みなさんはどう思われるだろう。